昭和48年04月30日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
これだけの御理解の中からいろんな事を教えておられる思うのですね。天地金乃神は昔からある神と言う事やら、だから天地ははやる事もなければ終わる事もない事やらためには天地日月の心になる事が大事だと。肝要だとそういう。最後には信心はせんでもおかげはやってあると言う事まで教えておられます。とにかく、ばらばらでまとまらないような感じがせんでもないですけれども、どの一言でもわからせて頂くと言う事は、大変な事だとこう思うのです。
成程天地金乃神は昔からある神だ、又はだから、ゆえにはやるもなければ、まぁ終わると言う事なもい。そういう神様を頂いて、おかげ頂いていくためには、天地日月の心になる事に精進しなければならない。最後には信心はせぬでもおかげはやってあると。私は今日は、この信心はせぬでもおかげはやってあると言う所に、大体焦点を置いてお話を聞いて頂きたいと思います。信心はせぬでもおかげ頂いているだ。御恩恵の中にあるのだと言う事がわかると言う事が信心生活者の一番大事な所だと思うのです。
昨日の朝の御理解の中にも「痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが有難いのぞ」とおっしゃる。いつも壮健なと言う事がですわかるとい事が、いうなら、平穏無事である言う事がどの位深い御神恵の中に、御恩恵の中にあることかと言う事がわかります時に、いわゆる本当の意味に於いての神恩報謝の生活が出来る、神恩報謝の生活が出来るという事がね、人間の一番の幸せであると思うのですよ。
話を只聞けば、成程信心はせんでもやっぱりおかげを頂いておると言う事は分ります。昨日の御理解の中にも、例えば目には見えない、感じませんけれども、私共が吐く息、吸う息、例えばこの呼吸が出来ておるという事。空気を吸わせて頂いておるというその事だけでも、成程これは生きとし生けるものの上に神様がお恵み下さっておるおかげの現れだと言う事が分ります。
かと言うて、そんなら空気が目に見えるわけでもないのですけれども、いよいよ例えば病気でもしてから、酸素吸入でせしなければならないようになってきて、初めて、空気の有難さがわかるようなもんです。そういう意味でです、話を聞いたり理屈を聞きますと、成程おかげを受けておると言う事がわかるんですけれども、信心はそのおかげを受けておるという有難いという心が湧いてこなければ信心の値打ちはないのです。
例えば、勿体ないなあとか、有難いなあという、そういう心が湧いてこなかったら信心の値打ちはないのです。只分っておるだけでは、私は今日は御神前であの白という字を頂いた。下にそれから水という字を頂いた。白というのは、昨日の御理解でいうなら、空気のようなもんでしょうか。勿論、空気は無色透明ですから、色なんかありませんけれども、まあ、白というのは大変深い色だと言われております。
「白という色の深さや陶の秋」なんていう、もう白という色程深い色はないという訳なんです。何もない様だけれども、白という色は深い色だと。私共が心の状態に何もかもさっぱりしてしまいたいという時に、とにかく白紙になってと申しましょうが。自分の心の中に何にもないわだかまりもない、不平もない、不足もないそういう心を白の心だと。そういう心の上にです、神様がいわば誰にでも下さってあるおかげです。それをまあ水というのは、お恵みと言う事に頂いてもらいたい。水というのはお恵みだと。
白という字にお恵みの水が伴いました時、それは泉という字になりますよね。いわゆる沢山のお恵みが、たたえてあると言う事なんです。神様が信心はなくても、おかげはやってあると言った様なおかげは、もう一律なんです。同じなんです。只、頂いておる者がおかげと実感するかしないかという事なんです。勿体ない事だと、それこそ教主様のお詠の中に沢山でてきますよに、賜(た)びし命である賜びし御ものなのである。賜りものだと言う事なんです。
賜っておる所の命、今日お生かしのおかげを頂いておると言う事だけでは、本当に有難いなあという心が湧く人と、ああ又目が覚めたという位な人と、様々でしょう。目が覚めたと言う事だけでも、今日お生かしのおかげを頂いておると言う事の有難さをしみじみ感じる人と、いわゆる頂くおかげは同じであっても、その頂き心によって、自分の様な不幸な者はないと言う様な思い方をする人はお恵みをお恵みと感じてない人なんです。お恵みをお恵みと感じ得れる人こそ有難い人なんです。
そういう心の状態の上にです、お恵みの水が限りなくそそがれる、泉のようにおかげをたたえる事が出来る喜びを頂く事が出来るというわけなんです。ですからその何でもないような中にです、おかげをおかげと実感するおかげをです私共が感じさせて頂かなければならない為に、天地日月の心になる事肝要だという大変な御教えを下さってある。そんなら天地日月の心とはどいう心なのか。私はそこんところをいつも天の心というのは、与えて与えてやまない心というておる。
地の心とはもう黙って受けて受けて受けぬく心だと言っております。日月の心というのは、正確無比、いうならもう実意丁寧神信心と言われておる。いわゆる秩序ある生活とでも申しましょかねえ。天地宇宙そのものが、そういう秩序正しい天地の動き運行の中にある。小天地である私共もやはりそういう天地に神習わせてもらう生き方こそが、本当の生き方だとこういうわけです。
日月の心になる事肝要と。そこで私はその天地日月の心になる事というのを今日はもう少し具体的に聞いて頂きたいと思うのですけれども。そういう生き方の中からです、成程信心はせんでもおかげはやってあるというおかげは体認されてくる。体で認める事が出来る。心に感ずる事が出来る。そこから有難いという心が湧いてくる。だから信心の稽古なしにおかげをおかげと感知する事は出来ません。
特別なおかげを頂きますと、御利益だおかげだというけれども、そういう特別に感ずるおかげは、いつも現れておるとは、思われませんから。実を言うと、より不思議なおかげの中にあるのですけれども、それはあまりにも偉大で、私共はおかげと感知しきらんのです。例えばお願いしとったら、医者に見放された病人が助かったとか、ちんばが立ったとか目が開いたとかね。
そういうおかげを頂くと本当にいわゆる奇跡だとか、不思議だとかいう事は皆さんが有難がりますけれども、そういうおかげを私はおかげというておる時代は、本当のいわば信心はせぬでもおかげはやってあるいうおかげはわからないと思う。昨日八時ちょっと過ぎだったでしょうか、そこの野口さん夫婦と娘さん達夫婦親子三人、今度赤ちゃんが出来られました、昨日丁度その日ばれに当たっておりましたから、御両親を伴うて、そこの合楽アパ-トにおられますから、親子四人でお礼参拝がありました。
それでその事を神様にお取次させて頂いたんですけれどもね、まあいくらもお子さんがおられる中で知子さん達夫婦が一番信心がない、まあ時々には参ってくるちゅぐらいな。そう言う事でお礼申させて頂いておりましたらね、私の心眼に映ると言うか頂かしてもらうのがね、知子さん達夫婦がね、一つの腕時計を二人ではめておるところを頂いた。そらえらい窮屈ですよねぇ。どこへ行くにでも一緒でなければならん。手がつないじゃるから腕時計まあ、仲がよいと言う事かもしれません。
だから仲がよいということはいつもそのくっついておらなければ安心が出来ない、といったようなふうにも感じられますけれども、夫婦の者がいつも時計を見て間違いのない夫婦生活というかねぇ、日常生活をさせて頂いておる。別に悪い事はせん。お互いが信じ愛し合て生活をしておる。おかげで子供も生まれた。本当に幸せそのものである。この生き方でいやぁ別に神もいらん仏もいらんという感じである。
しかも時計ですから間違いのない生き方を夫婦でさせて頂こうやと、話し合いながらいつもその時計にねじさえ巻いときゃいけれる訳ですけれども。所がそのいうなら、本当の標準時計にね、これが合っておるとは言えないのです。今日の御理解で申しますと、そんなら天地の中にあるところの秩序を乱していないと言う事は言えない。だからいつの間にか十分遅れ、二十分遅れしとる。けれども時計はカチカチ動いてはおる。
だから私共にはどうでもそんならば本当のもの、いわゆる本当のものと、本当のものには限りがありませんけれども、まず私は教会にある時計にいつも合わせておかなければならない。あら合うとると思うとったらこれは五分遅れとったというて時計を合わせて行く生き方。その為にはね、昨日野口さん達御夫婦も一緒でしたから、ああた達お父さん御夫婦のような生き方をしなければなりません。
別に時計というものは二人一緒にはめてはないけれども、どこにおろうが、どこに離れておろうが各々に時計を持っておる さあところが時々、お父さんとお母さんの時計が違う事がある。五分遅れたり、又は十分進んだりするような事がある。だから俺のが正確だ、私のが本当だと言う様な事もあろうけれども、そんなら親先生にお伺いしてからきめましょうと言う様な事になってくる。
教会の時計はの表示を見るとそういう意味なんです。ですから教会はもう天地につながっておる。正確無比の例えば時計だと信じさせてもらうところからです、そんなら親先生どうおっしゃるかというところでいつも合わせていく生き方。私はそういう生き方をですね、今日は天地日月の心というふうに頂いていったら、さほどに難しい事じゃないなと思うです。自分の考えじゃない。自分の信じておるという我流のものではないいつも教えというものが元になっておる
。その教えといものがいつの間にか乱れたり間違ったりしておるけれども、教会の時計にいつもお互いが合わせていこうとする、そういう精進こそです、私は天地日月の心という心が、段々感得出来れる。天地日月の心とはこういう心かと、いろんな問題が起きて来る、そんな問題が起きる起きないは別として、様々な日常の生活の上にです、間違いのな生き方が出来る。間違いのない生き方を私は天地日月の心だというふうに今日は聞いて頂いた。これは必ず夫婦だけではありません。
親子が兄弟がです、いろんな意見が対立致します、対立と言えばとどちらも本当そうにあるけれども。それでいてそんなら、どちらのが本当だからと言うて、片一方の方へついていきよるとです、いつの間にかどこかで違うてくるわけです。それが人間です、当たり前です。そこで私共は時折正確無比のものに、合わせていこうとする精進、それが信心だと私は思うです。それを今日の御理解で申しますと、天地日月の心になること肝要だと言う事になります。
そういう生き方の中にいわゆる天地の心はもう限りなく、与えて与えてやまない心も育ってくるでしょう。成程ここは黙ってという大地のような心の状態も開けてくるでしょう。いわゆる、日月の心という神様の心に添い奉る生き方が求められるのですから、それに応えた生き方が出来る、そういう心を天地日月の心だというふうに今日はて頂いておる。そういう生き方の中からですね。
私は、信心はせんでもおかげはやってあるというおかげ、我情我欲を放れて真の大道を開きみよ、わが身は神徳の中に生かされてあるとある。我情我欲を捨ててと言う事は、いや私の方が本当だ、いいや私の方が本当だというところにこれは我情と我情とか出会うわけです。そこでどちらかがです、いやどちらもがです、私もこう思うばってんまだ本当の事があるかもしれんからそんなら親先生にお伺いしてから決めようというその心の状態が我情我欲を捨てた姿です。自分の思いを捨てておる時ですから。
自分は赤だ、いや自分は青だと言い張っておるのじゃなくてですね、そこからね、御神意のままに動こうというそこには自分の赤の場合も青の場合に捨ててある事が、我情を捨てた姿です。そこは間違いのない、いうなら今日の御理解で言うと、白なら白という色を教えて下さる。成程御神意の深い事には恐れ入ってしまうなあ、はじめの間は赤と思いよった。はじめの間は青が本当だと思いよった。
けれども親先生は白とおっしゃるから、白の通りにさせて頂いとったらです、何年又は段々時間がたつに従って、親先生のおっしゃる事が本当だったと分る。御神慮の深さがわかってくる。神様の心の深さがわかってくる。成程、白という色の深さや陶の秋という事になる。信心をさせて頂く、これはもう今も昔も同じですけれども、一番の信心の眼目は安心立命にあるといわれております。
いつも心が安らいでおる、安心しておれれる生活 それはどのような中にあっても安心しておれれるという事なんです。自分の上に都合の良い事ばっかり起きてくるから有難い。もう神様にさえお願いしときゃ大丈夫ですよという心は、それは本当の安心じゃありません。それは安全感というのです。例えばバスに乗せて頂いておる時に、これがひっくり返ったらどうするじゃろうかなんて思わんでしょう。やっばり安心して乗っておれれる。けれども、それは本当の安心じゃない。安全感です。
その証拠には、自動車と衝突する事もあれば崖からひっくり返って落ちる事もあるでしょう。だから例えばね、崖からひっくり返って落ちようが、衝突をしようが、その向こうにやはり神様の御ふところの中だと言う様なです、心の状態が開けてくる事を安心と申します。どういう中にあっても安心、それこそ落ちるこの身は十八願いのうちと思えば危なげはない。落ちるところがそれは地獄であろうが極楽であろうが、やはりそこも天地の親神様の御心の中だというわけです。御ふところの中だというのです。
ですから、心がいつも安心しておれれると言う様なまあ、難しく言うと、そういう心を安心と申しますわけですけれども。私共が我情我欲が放れる。自分の思いを捨てて神様の思いになろうと努めるところにです、わが身は神徳の中に生かされてあるなあという、これは体験が生まれてまいります。金光様の御信心は。ここが尊いです。それをまあ場合にはおかげという場合があります。もう神様の働きの一分一厘の間違いのない事が何と素晴らしいタイミングかという、そのタイミングが生まれてくるです。
我情我欲を放れて、心を神様に向けての信心をさせて頂いておりますとね。そういうおかげをここに実感するから、成程御神徳の中にある我が身は神徳の中に生かされてある喜びが、これが信心の喜び。ですから私共のいわば安心しておると言う事がです、本当の安心ではなくて、只安全感だと。その安全感が段々本当のものになっていって安心と言う事になるわけでございますけれども。
そういう心の状態を願っての信心、いわゆるおかげは信心せんでもやってある言う様なおかげを自分のこころキャッチしていくと言う事。そこに今までおかげでないと思うておった事の中に、おかげがわかる。全然今まで知らなかったいうならば、眼に見えないところにおかげを感じる事が出来る。
有難い、勿体ないという心がいよいよ深く、私は白という心はです、白と言う心は不平不足のない心。同時にもっというならばです、不平不足がないだけではない。只、平穏無事の時は誰だってです、不平不足はないですよね。だからそういうぼんやりしたものではない。その不平不足のない心の中から湧いてくる有難いなあ、勿体ないなあという心がいよいよ完璧な白だというふうに思います。
心に何かかかる事がある。心配事がある、不安であるという時にはもう白の心じゃないのです。けれども心にもかからない、心配もないというのは、何とはなしに心が不平不足もないけれども、それは本当の不平不足の無い心とは言えない。何か起きてくるとすぐ心に不平が起きてくる。教主様のお詠の中に「頼りなきものを頼りとするゆえのこの頼りなき不安なれかも」(二度読む)
頼りにならないものを頼りにしとる。私は自分の腕を頼りにしとる。私はお金があるから、私にはこんな良い息子があるからと、それは頼りにはならない。頼りにはならないものを頼りにしておるというのが、今月私がいう安全感なんです。だからそんなら、一人息子が亡くなったというたらもう、右往左往しなけれはならない。例えばそう言う事であっても心が安らいでおるという心が安心なんです、頼りないものを頼りにしている。間違いがないという先程野口さん所の娘さん御夫婦の生き方がそうです。
いうならば、それです、そんならお父さん達夫婦の生き方が、いうならば、いわゆる本当に間違いのないものを頼りに持っておると言う事。そこから生まれてくる心が安らぐ心を信心させて頂く者の値打ちだとも私は思う。今朝、私はもうびっくりして、今日は跳ね起きたんですけれどもね、もう、四時前二十分なんです。それでもうびっくりしましてから、準備させて頂いた。
十分間しかかからなかった。そしてここへ出らして頂いたのが丁度四時前十分でした。どうも枕元に置いてある時計が鳴らなかった。だから私が家内にお前はゆうべこれ。私いつもは申しませんです。例えばそう言う事があってもです。それは家内を責める事になりますからね。「お前、ゆうべこれはねじをかけとらじゃったね」と言う事はある意味で責める事ですから。
それが今朝は私、「お前昨日はこれ、ねじかけるとを忘れとったろう」と「いいやかけとりました」とこう言う。そんなら覚えんはずはないけれども、やはり寝て覚えなかったのか、又はかけ忘れとったのか分らんけれども、こういうものを頼りにすると言う事がいくら正確無比の時計であっても、いわゆる機械なのですから、いつ故障があるやら分らん。人間の事ですから。
じゃんじゃん鳴よっても覚えないかも分らん。これを頼りないというのです。だから、私の心の中には、今日はそんならちょっと白ではなかったと言う事。例えばそれが遅くなっておってもです、家内に「お前昨日ねじかけ忘れとったろう。」と言わんですむ心が白の心です。ですからもうかすかにでもですね、私共があれがこうあってくれるといいけれども。この人がこうという心はもう既に我情であり、白の心にちがった不純な心が入っているのです。
不平もなければ不足もない。只おかげで間に会うた。例えばそんなら四時の御祈念にまあ二十分だけは時間があった。私は三十分間はここで座っとかにゃでけん大体は けれどもです、そこに不平もなければ不足なない。だけではない、有難いとか勿体ないという心が白の心。そういう心に水が与えられる。それでいわゆる泉と言う事になる。沢山の水がたたえられるところのおかげの状態というのはそう言う事。
子供に不平を思う、不足を思う。誰彼にもう何か問題が起きると人のせいにしてしまうといったような事では、白の心とは言えません。今朝の例えば私が家内に、責めたわけでもないですけれども、ゆうべお前かけ忘れとったろうと言うただけでももうそれは、ちょっと不純なものが入ったわけです。大体は言わんですむ。ああおかげ頂いてよかった、間に合ったという心だけでいいのです。
ですから厳密に言うとです、私共は心の中に、白の状態を頂くと言う事が願いであり、為には例えいくら枕時計であってもです、いくらねじをかけておっても、そういうものを実は頼りにしてはならないと言う事なんです。頼りにするのは神様、神様がちゃんといつもの事でいうならば、四時二十分には起こして下さる。眼を覚まして下さる。時計をあてにしてはいない。神様だけが頼りだと、いうところにです、いわゆる不安のないおかげの、体験が生まれてくるのです。
頼りなきものを頼りとするゆえのこの頼りなき不安なれかも。自分の心の中に不安があり、心配があり、焦燥する時には、頼りにならないものを頼りにしておる時と思うてです、そういう心をうち捨てて神様一心にすがっていくという生き方。そういう生き方を日々稽古させてもらうと言う事が今日は天地日月の心だというふうに聞いて頂いたね。だからそういう信心をさせて頂く事が信心生活者には肝要だという。
そこから感じられるのが、成程信心はせんではおかげはやってあるという、そういう大きな意味に於いてのおかげをおかげと感知する事が出来る、体認する事が出来る。だからこそ日々が有難い、いわゆる神恩報謝の生活が出来ると言う事になるのです 何もない不平もなければ不足もない。その不足もない心から湧いてくる有難いか勿体ないという心の状態こそが天地日月の心になっておる時の姿だと言う事になるのです。これに例えばも絶対のお恵みの水というものはかかってくる。
これに注がれるという事を今日は白と水という字を頂いて合わせて泉というおかげの受けものをです、受けて行く事の願い、そういうおかげを受けていく生活を金光様の信奉者の信心生活だというふうに思うのです。おかげと思ってなかった事の中にもおかげと感じさせてもらえる信心。もういうならば、一切がおかげと分らせてもらう信心。そこから生まれてくるのが、いうなら安心立命の心だと言う事になるのじゃないでしょうか。
どうぞ。